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故郷を離れるということ

国公立大学の合格発表があった。

 

僕は現役時代は1校も受からなかったのだが、1年浪人をさせてもらって私立大学は全てリベンジ、国立も現役時代では考えられない大学に合格できた。

 

昔は大学生のバイトが掲示板を見て遠方の受験生に合否を伝えてくれるというサービスがあったそう。合格だったら「サクラサク」不合格だったた「サクラチル」という電話や電報をするだけでお金がもらえたようだ。

 

僕はインターネットでの発表を見た座りながらPCのモニターを見て、自分の番号を見てひっくり返った記憶がある。

 

入試のときに鹿児島空港から今はなき観音の広島飛行場を小型機に載るのが怖くて、この年鹿児島中央⇔熊本間を部分開業した九州新幹線リレーつばめに乗った。

乗り換えの博多駅でなぜだか泣けてきた。

見送ってくれた母親の姿を思い出してか、これからの生活に不安を感じてかは思い出せないけども、結構泣いた。

 

新生活を始める部屋はもちろん何もなかった。

家の目の前にあるコンビニで、広島風お好み焼きを買った。

広島のお好み焼きを食べたのはそれがはじめてだった。

 

すぐに引っ越しの荷物が来て運び込んでいると、隣とそのまた隣も引っ越しをしていてちょっと仲良くなった。

初めて使う標準語。すでに東京に進学していた幼馴染に仕込んでもらっていた。

「鹿児島?あんましなまっていないね?」と言われることも多かったので、彼女には感謝しなければならない。

 

入学式はその3人で行ったような気がする。

一人は地元出身ですぐいなくなった。

もうひとりとはあんまし気が合わず仲良くはならなかった。

 

部屋にはたくさんのマンガとゲームキューブとプレステ2。

これだけあれば友だちもできるだろうと準備していた。

 

ほどなく授業も始まり、新しい友人もできて、仲良くなったり、仲良くなれなかったりしながら、「イツメン」みたいなのもできた。

僕の想定通り、僕の家には誰かがいる感じになった。

3,4年生になるとみんな車を持ち、彼女もできて疎遠になったりしたものの、たまに会うと「遊びに行くか」と車であてもなくでかけたり、酒を飲んだりした。

 

しかし、夏休み・春休みは必ず鹿児島に帰って遊んでいた。

その時も新しい友達もできた。

広島での生活も楽しみながら、地元鹿児島も新しい関わり方が始まった。

 

これが東京だったり海外だったりすれば鹿児島とは完全に疎遠になったが、僕の今を形作る新しい時間を過ごした4年間であった。

 

そこから宮崎で働くようになり、鹿児島に戻り、最近では東京によく行くようになった。

 

「故郷を離れる」というのはとても寂しいことのようだけども、僕にとっては活動範囲が広がっただけだった、と今になって思うようになった。

 

今年故郷を離れる人たちも、コレでお別れではないから、勇気と希望を持っていってらっしゃいと言いたい。

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