小学生低学年のころ、新聞記者をしている友人のかあちゃんがパソコンなるマシンを持っていました。割りとオーガニックめの暮らしをしているご家庭だったはずで、屋上には手作りの風力発電とかやっちゃうお家にコンピューターがあるというのは子供ながらなに「すげぇ家だな」と思った記憶があります。
それをみて、当時NHKでやっていた「天才少年ドギー・ハウザー」よろしくキーボードをかちゃかちゃやるフリをして楽しんでました。
また、他の友達の家にはゲームがたくさんあり、友人の兄ちゃんが「ファミコンはやっていいけど、これだけは触るな」とクギを刺されまくっていたのが、キーボードの上にカセットを指すタイプのマシン。今思えばきっとあれはMSXだったと思うのですが、もはや確かめる術はありません(たぶんある)。
幼少期はそんな感じで「コンピューターらしきもの」を見る、軽く触るにとどまっていたわけですが、小学生になってから学校で「FM TOWNS」に触れました。たしかWin3.1があったような気もするのですが、TOWNSいじってました。
よって、いわゆるWindows的なインターフェースから入ったので、プログラムとかコマンドには縁遠いコンピューターライフを送ることになりました。
学校の図書館になぜかあったBASICでゲームをつくるみたいなやつにテトリスのコードが掲載されていて、数日書けてテキストエディタに手打ちしたのですが、それからどうするかよくわからず断念して記憶もあります。
そして、いよいよ我が家にパソコンがやってきました。小学校6年生だったと思います。
Windows95が発売されて世の中が狂喜乱舞していたころ、うちの父親が勢い余ってジャパネットたかたで注文したやつのはずです。
富士通のDESKPOWER。モニター本体一体型、初代Pentium1Gとかだったはずです。
狂ったようにゲームばかりしていたのですが、当時のPCあればはフレーズも多く、そのたびに強制再起動。ついにハードディスクがお亡くなりになられました。
その頃、曽祖父が他界し、親戚一同が集まった中に、「超絶パソコン詳しい兄さん(大阪在住)」がいたのです。その兄さんに修理を依頼、やっとパソコンが帰ってきました。そのとき、うちのPentiumに「下駄をはかす」作業まで実施してもらい、自作PCの世界にも少し興味を持ち始めました。
そしていよいよ「インターネットとやらに接続してみたい」という欲が生まれてきました。親に頼み込んだところ、「金は出すから自分で調べてやれ」と言われ、まずはプロバイダー契約を結んでついに接続。
プロバイダーは鹿児島ローカルのシナプスでした。いまでこそ、社長さんとかとも知り合いになったわけで、当時の僕にそんな風になったよと教えたいところであります。
例の「ぴーひょろろろ」の音を聞いてインターネットと接続。僕のインターネット史はここから始まりました。中学3年の頃だったはずです。
当時は「1日何回メールチェックをしている」みたいなのがカッコいい時代でした。
友達に書いてもらったメアドのメモを見ながら、「インターネットはじめました」とメールを送って、返信が来たときは「これはすごいやつだな」と思いました。
歌舞伎町のネオンのように煌々とバナー広告がきらめくエロサイト。
お気に入りのアーティストの情報。
当時流行り始めていたいわゆる「アングラ」なサイトたち。
ビートマニアのようなソフトBM98、流行していたテキストサイト、情報の波に飲み込まれていきました。山奥に暮らす僕にとって、新しい世界が開けた瞬間でした。
そして、Windows95に搭載されていた「MS CHAT」というチャットアプリ(当時風に言えばソフト)に足を踏み入れました。
日本中から集まった人たちと夜な夜なしょうもない会話をするのです。僕のタイピングスキルはここで磨かれました。
そうこうしているうちに、MSチャットはサービス終了、僕はヤフーチャットに活動の場を移し、鹿児島県のネットユーザーたちと交流することになりました。
チャット経由ではなかったのですが、ここではじめての「オフ会」に参加しました。今でも忘れません、隼人にあるケーブルテレビ局でした。自作PC構築オフみたいな感じだったはずです。
このころ、ある雑誌の付録に「ホームページ制作ソフト」がついていたので、これを駆使してホームページを作るようになりました。
当時ハマっていたGLAYのファンサイト。今やったらアウトなことも結構やっていました。同級生たちも自分の趣味のサイトを作ったり、自作ソフトを公開するなどなかなかギークな楽しみ方をしていました。
そしてやってきたケータイ時代。iモードを使って携帯からインターネットを楽しむことができるようになりました。また、「携帯アプリ」という概念も登場し、携帯でテトリスやドラクエ1をプレイしたときは「これはやばい時代がきたな」と思ったものです。この時僕は高校1年生になっていました。
携帯が普及するのと同時に「ネットで知らない人と会う」ことも活発になっていきました、メル友なる概念もこの頃誕生し、いわゆる出会い系サイトも登場してきました。
僕も色んな人と友達になったのですが、一度めっちゃ美人のナースと遊んだことがあります。焼き肉をおごってもらい、「若い子がたくさん食べてるのみてるとお姉さん嬉しいわ」みたいなことを言ってた記憶があります、土下座してお願いしたら良いこともきっとあったのではと思いますが、ヘタレ高校生だったので何もなかったです。結婚寸前の彼氏がいたようですが、今頃どうしてるんだろうか・・・
あとは、チャットで交流がある人にも会うようになりました。今でも付き合いがある人も多く、結構年上だったはずが、僕も当時のあの人達の年齢を越えました。
当時も色々いざこざはありましたが、みんな優しかったな。インターネットの世界はとんでもなく居心地が良かったです。
そして、MP3という音楽フォーマットが登場。MD全盛期でしたが、僕は容量の少ないMP3プレイヤーに5曲くらいだけ入った音楽を聞いて「これが最先端だ」と悦に入っていましたが、それから間もなくMP3を直焼きしたCDRを再生できるCDプレイヤーが登場しました。
同級生の多くもパソコンを持ち、携帯を持ち、ネットに接続する時代がやってきました。この頃、僕は「DESKPOWERではもう勝負にならない」と思い、祖父に金をくれと相談。当時ちょっと欲しかったGLAYのJIROモデルの青いベースもほしかったので金をせびっていたのですが、10万やるから好きな方を買えということで、パソコンを選びました。
早速、アプライドに行き、カッパーマインコアのCeleron、いわゆるカッパセレをベースに自作PCあればを構築。Pentium3が全盛期だったので少し残念ではありましたが、最新に近いスペックのPCを手にしました。
なぜ最新スペックのPCがほしかったのか。オンラインゲームが熱い時期を迎えていたのです。僕がハマったのがラグナロクオンライン。当時高3でしたが勉強もせずにひたすらROにログインしていました。
職業は商人で、イグドラジルの葉(通称イグ葉、復活アイテム)を商材に暴利を貪っていました。ところがある日、いつものように店を出したところ一瞬で葉っぱが完売。
しかも、お金が入っていないように思える、どうしたものかと思ったところ、値段の桁を2つくらいつけ間違って販売開始していたのです、購入したのは海外のプレーヤーで、つたない英語で必死に返してほしいとメールしたのですがかなわず。
そこから一気にRO熱が引いた頃には、大学入試目前のシーズンでした。
こうして僕は無事(?)大学入試に失敗。色々あったのですが、浪人生活がスタートしました。色々あった最中にカシオの名機「G-Fort」を手に入れていました。エミュレーターが動くPDAとして名を馳せており、僕もアレゲなツールをインスコして勉強の合間に楽しんでいました。
ただ、浪人期間中はほぼPC端末からのネット接続から離れていました。ちょうどCPUクーラーが不調で電源入れても3分しか持たないというウルトラマンのようなPCになったしまい、「もうこのままでいいや」と勉強に打ち込んでいました。
この頃悩まされていたのが「パケ死」問題。2ちゃんねるの大学入試板やエロ画像収集などに励むとすぐなくなるパケット(今はギガというようですが)。毎月怯えておりました。浪人が終わる頃に「パケ放題」というサービスが始まり、やっとパケット代の恐怖から開放されました。
このときのネット回線はマルチプロトコルのISDN、世間では光回線サービス「フレッツアイ」がスタートしたと騒ぎになってるころでございました。
大学では広島に行き、マンションにネット回線がなかったのでエアエッジの128kプランを使っていました。当時月々9800円とかの高額だったように思います。
広島でもヤフーチャットで友達を探したりしていましたが、コンテンツ作りからは離れていました。ここで登場したのが「フレンドパーク」「グリー」「mixi」などの国産SNS。ネットユーザーたちはこぞってSNSに登録しはじめたのです。
それから、フェイスブックが出てきたり、スマホが登場したりとあれやこれやと出てきたのですが、特筆すべきものはないです。なぜかというと、昔ほどワクワクしなくなっていたというのと、出てくるもの消えるもののサイクルが早すぎて大きく記憶に残っているものがないのです。
そんなさなか、「僕もなにかしらネット使ってやってやろう」とはじめたのが情報サイトKagoshimaniaXです。
このサイトをやったおかげで、結構名前が売れて、テレビとかラジオに出るようになりました。
鹿児島でネットにある程度明るい人ならほぼ知っているというようなサイトに育てました。
社会人としては終わっている僕に生きる場を与えてくれたのがインターネットであり、僕の居場所がインターネットなのです。
おわり。